
JR横浜線相原駅です。武蔵国・相模国を分ける境川を渡るとそこは東京都町田市相原町です。今日は相原町の町歩きです。

丸山開田記念碑は西の方向なのでぶらぶらと歩いて行きます。道端にコンクリートスラブを積んだユニック車が止まっていました。側面に「都型円形用人孔中間スラブ2200用Φ600 H=300」など製品仕様らしきメモが記してあります。これは何でしょうかね。書かれている内容に興味を覚えますね・・・。


そこから50mほど先の交差点で交通規制をやっていました。
東京都都市づくり公社 南多摩下水道事務所の雨水下水管新設工事現場でした。むむっ!これでコンクリートスラブの意味が解りました。スラブをユニックで吊り上げ、下ろせば工事完了です。近頃はコンクリの現場打をやらないで、ボックスカルバートなどと同様工場生産品を使うのですね。眼前のコンクリート管も工場生産品みたいです。

工事現場の北側、相原町の鎮守諏訪神社です。

養和元年(1181年)3月23日別当高岳坊長温が氏子と共に信州(長野県)下諏訪大社を丸山の地に勧請し相原山大明神と称した。
例大祭(8月第3日曜日)にはお囃子・獅子舞奉納が行われる。
丸山獅子舞は町田市指定無形民俗文化財である。
(諏訪神社の由緒、掲示板、案内板より抜粋)

諏訪神社前を西へ向かい丸山公会堂に到着です。敷地の一角に立派な記念碑が立っています。

丸山開田記念碑です。北向きに立っているのでもろに逆光です。碑に向き合ってメモしたところ、おおよそ次のようなことが刻まれています。
丸山開田記念碑
堺地区第一の耕作面積を誇りながら水田を有するもの五指にすぎず、陸稲を作っていった。昭和28年8月28日塩沢与助他廿名相計り丸山及び中村の一部約四町歩の開田を決意。同年9月東京多摩土地改良事務所、東京都農地改良課へ事業の認可伺い。昭和29年下測量、水利権を得るための活動。8月本調査、水路決定。11月12日丸山土地改良区設立認可。昭和30年1月15日丸山土地改良区設立総会。昭和30年5月4日通水、美田を開く。
昭和38年11月吉日建立
用水の取水源、用水路経路などは刻まれてないです。参考にした「町田観光ガイドブック」117pに「真米川を堰き止め用水を造り、最盛期には開都地区の境川からもポンプで揚水して水田に供した」の記述あり、真米川が取水源と分かりました。真米川はここより西方約1km、二国橋付近で境川左岸に合流する小河川です。

丸山公会堂前の道をさらに西へ歩いていくと、右手山の方から来る水路を発見しましたよ。この辺は東西に流れる境川の左岸台地南斜面になります。昔の丸山地区向け用水路の遺構か否かは不明です。堰上げすれば東側の田んぼへ用水を送ることは可能に見えます。

同地点から見た下流方向です。町田街道を潜り境川に合流しています。左側は相原小学校。

真米川から来た用水路の遺構かも知れないので、水路を上流へ少し追いかけてみました。相原小の先を右折し山の方へ向かう道です。

右手畑の中を東へ向けて流れる水路を発見。先ほど見た水路の上流部です。相原駅からここまで田んぼや畑はなく住宅がびっしりでしたが、ここにきて畑が残っていました。

水路は北の方から来て道路を潜っています。眼前の桝と北の方から続く暗渠水路。

すぐ先で水路は西へ曲がっています。西から流れてくる水路。

水路沿いに追いかけます。
奥の建物は町田市子どもセンターぱお。

ぱおの北側を流れる水路。右側にコンクリートの桝が見えます。ぱおの右側(山側)は町田市スポーツ広場です。水源はスポーツ広場地下からの湧き水と思われます。追いかけた結果、真米川から来た用水路ではないことが分かりました。内心期待したんですけどね・・・。
碑文にあるように丸山地区へ通水する以前、五軒の農家が水田耕作をしていたので、その水源は今たどった水路かも知れないですね。


これは町田街道開都バス停付近の大きく蛇行する境川です。
資料に「最盛期には開都地区の境川からもポンプで揚水して水田に供した」とあるのでこの近辺の境川から取水していたと思われます。
次回は真米川を歩く予定です。
丸山公会堂の位置です。(地理院地図より)
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