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横浜水道みちを行く

横浜水道みちの事なら何でも知りたがり屋の管理人がその取水源を探訪します。

其の113 畑かん西幹線用水路を歩く6・御所見支線から円行へ

 今回が畑かん西幹線用水路探索の最終回です。
前回は落合南まで進みました。地図ではその先は500mほど南へ行ったところで横須賀水道みちへ入って行きます。
参考資料は「神奈川県相模原開発畑地かんがい技術誌図面編一般平面図」(以下一般平面図)を用いましたが現代の市販の1万分の1の地図には該当する道がなくその上をたどることが出来ません。
そこで前回通った県道42号線の嫁ヶ久保バス停から始まる御所見支線から探索することにしました。御所見支線は横須賀水道みち付近が終点です。横須賀水道みちをたどれば円行の終点まで行くことが出来ます。
神奈川県相模原開発畑地かんがい技術誌図面編一般平面図
上記「神奈川県相模原開発畑地かんがい技術誌図面編一般平面図」(1965年3月神奈川県農政部耕地課)の部分図です。
縮尺は5万分の1です。

10月27日(月)晴れ、小田急相鉄海老名駅南口からバスで綾瀬市役所行に乗車し、嫁ヶ久保バス停下車。

畑かん西幹線御所見支線分岐点
嫁ヶ久保バス停から見た西幹線用水路御所見支線。
真っすぐ南西へ向かっています。

畑かん水路遺構・綾瀬市早川
歩き始めてすぐ御所見支線の右手50m位、農地の中を通る水路跡を発見しました。御所見支線と並行して南西へ向かっています。下流へたどってみました。
栽培している作物はゴボウ、ブロッコリー、ネギなどが見えます。畑かんは米の増産のため陸稲(おかぼ)栽培が当初の目的でした。

畑かん用水路遺構・綾瀬市早川
道路を横断する畑かん支線用水路。伏越(ふせこし)・サイフォンで右から左へ渡っています。

畑かん支線用水路遺構・綾瀬市早川
上記写真右側電柱下の呑口桝。ゴミ捨て場になっています。

畑かん支線用水路遺構・綾瀬市早川
吐口桝です。

畑かん支線用水路遺構・綾瀬市早川
その下流です。水路支持台が残っていました。

畑かん御所見支線水路遺構・綾瀬市早川
これは御所見支線道路沿い右側にあった水路跡です。
上流の嫁ヶ久保バス停方向を望む。土で埋まっています。
断面形状は台形でコンクリートブロック製、水路幅は外径が130cm、内径は90cmでした。この水路は左右に広がる農地向けではなくもっと下流の農地向けと思われます。

畑かん御所見支線水路遺構・綾瀬市早川
上記の下流で見た用水路の遺構です。こちらはコンクリート製現場打ちの用水路です。道路横断直前で伏越呑口桝と思われます。水路幅は外径が71cm、内径は61cmでした。

畑かん御所見支線
その先です。ガードレールに突き当たりました。ガードレールの向こう側は綾瀬市役所方面から来た市道です。ここは切り通し道の崖上になります。御所見支線は目の前の草むら辺りで地下に潜り道路を横断したと思われます。

畑かん御所見支線・伏越で市道を横断
切通しの市道です。海老名方面を望む。畑かん御所見支線は伏越(ふせこし)・サイフォンで道路を横断しています。画面右(上流)から左(下流)へ。

畑かん御所見支線遺構・綾瀬市早川
対岸の切通し崖上道路際まで行き吐口桝を探しましたが雑草が繁茂していて見つからず。その下流で見つけた御所見支線の遺構です。U字フリームというヒューム管の支持台です。内径は67cmありました。

一般平面図を見るとこれから先はほぼ真南に進み吉岡工業団地へ入って行きます。団地内で左折し団地を縦断し中原街道を過ぎた辺りの横須賀水道みちで終わっています。そこから横須賀水道みちに入り一路南東へ歩きました。
上記U字フリームを見てからその先藤沢市葛原まで用水路の遺構を見つけることは出来ませんでした。すべて撤去されたと思われます。

畑かん支線用水路・藤沢市葛原
綾瀬市吉岡から藤沢市葛原に入りました。横須賀水道みちから西の畑へ向かうヒューム管。支持台とセットで残っています。

畑かん用水路の遺構・藤沢市葛原
新幹線ガードを南に潜りました。水道みち沿いに放置されたヒューム管。

横須賀水道・海の杭(帝国海軍境界杭・波入り)
近くにあった海の杭(帝国海軍境界杭・波入り)です。
横須賀水道は元々帝国海軍横須賀鎮守府が作りました。
愛川町半原から横須賀逸見浄水場まで延長約53km。

畑かん用水路遺構・藤沢市市葛原
横須賀水道みち沿いの畑かん施設跡。右が上流側で左が下流側です。落差を付けています。
中はこんな風になっています。左が上流側、右が下流側。
畑かん用水路の遺構・藤沢市葛原 畑かん用水路の遺構・藤沢市葛原


以下は横須賀水道みち沿いに敷かれた支線から畑へ向かう小支線用水路です。
畑かん用水路の遺構・藤沢市葛原

畑かん用水路の遺構・藤沢市葛原
真っすぐ東へ伸びるヒューム管の水路。外径265mm、
内径は215mmでした。

畑かん用水路の遺構・藤沢市葛原

畑かん用水路の遺構・藤沢市葛原
こうして見ると水道みち沿いの水路は吉岡工業団地からの西幹線用水路御所見支線の延長のようです。地図上では中原街道の先の横須賀水道みちで終わっていますが実際には葛原まで延びていたと思われます。

畑かん用水路の残骸・藤沢市葛原久保地
水道みち沿いで見た用水路の残骸。これが今日の探索行で見た最後の遺構となりました。ここは藤沢市葛原久保地です。

横須賀水道みち・藤沢市葛原
その先です。県道42号線西山田信号近くです。この辺りで落合南から西幹線用水路がここ横須賀水道みちに入って来たと思われます。

横須賀水道みち・県道22号線交差
その先県道22号線を横断したところで横須賀水道みちはいすゞ自動車の工場敷地内へ入って行きます。
一般平面図によると西幹線用水路は近くの北門辺りから水道みちに並行して工場内を南東へ向かっています。そしてその終点は現在の工場南門付近(土棚と円行の境)となっています。

ところで、調べたらこの工場の操業開始は昭和37年です。
畑かん上流部の専用導水路(津久井分水池、虹吹分水池間)の完成が昭和39年3月です。それまでは横浜水道虹吹分水池から分水を受け昭和24年から通水を開始し、その後畑かんの幹線、支線、その先の小支線が完成したのが昭和34年度でした。
畑かんがまだ盛りのころにこの工場は操業を始めています。
この辺りでは工場や住宅用地需要が急増する都市化の波が早かったと言うことでしょうね。
一般平面図に明確に路線が表示してあるので実際にこの通り施工されたものの、超短命に終わったと思われます。

横須賀水道みち・いすず藤沢工場南門付近
これはいすゞ工場内を通過して出て来た横須賀水道みちです。
下流の鎌倉方面を望む。ここはいすゞ藤沢工場南門付近です。

さて、一般平面図を見ると西幹線用水路終点までの途中、「藤沢排水」が枝分かれしています。これが本当の西幹線用水路の終点です。5万分の1の地図を現代の1万分の1の地図にあてはめたらぴったり同じところが見つかりました。

畑かん西幹線用水路藤沢排水終点
藤沢排水は藤沢北警察署前の信号から約200m南へ進み、円行2-7を東へ入った突き当りのT字路で止まっています。このT字路交差点が藤沢排水の終点です。正面は幼稚園ですがその東側には引地川が流れています。ここは藤沢市円行2丁目です。

柳橋より引地川下流を望む
付近の引地川に架かる柳橋から見た下流の景色です。
おそらく藤沢排水はこの川に放流されていたと思います。
橋の下流へ歩いて見ましたがその後の護岸改修のせいか放流口は確認できませんでした。

畑かん西幹線用水路の探索行はここまでです。
この後柳橋から坂を上り近くの小田急湘南台駅へ向かいました。

畑かんの水源は相模原市緑区にある津久井分水池です。
そこから相模原市南区陽光台の虹吹分水池までの専用導水路約10kmを歩き、さがみの仲よし小道の起点(相模原ゴルフC南側)からここまで歩いてきました。御所見支線経由で延長約21.5kmです。津久井分水池から約31.5km歩いたことになります。

虹吹分水池に「畑地かんがい事業の碑」が立っています。
その碑文には
神奈川県央相模原横山大地は、北は相模原市より南は藤沢
市に至る「八里橋なし九里の土手」ともいわれた丘陵で古くから水なき台地と呼ばれた。作物は天水に頼るのみで、ひとたび日照りが続けば年々旱魃の被害を受けること多く・・・

とあります。今回延べ5日間かけ西幹線用水路を歩き「八里橋なし九里の土手」に少しだけ触れた気がいたします。

先の大戦の敗戦で国力の落ちた中、食糧増産のためにこれだけの大事業をよくやったな~~・・・。急速な都市化の波で畑かん事業は短命に終わったとはいえ日本という国、ご先祖さまは大したもんだというのが率直な感想です。
それから水源地から末端の小支線まで自然流下で送水されました。素人では考えが及ばない発想の大胆さとそれに応えた技術力に敬意を表します。

今回の参考資料は本文に記載の通りです。
他には「神奈川県相模原開発畑地かんがい技術史」
1965年3月神奈川県農政部耕地課(相模原市立博物館蔵)
を参考にしました。

今回のスタート地点嫁ヶ久保バス停付近の地図です。

大きな地図で見る
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コメント

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  • 2013/11/01(金) 23:29:51 |
  • |
  • #
  • [ 編集 ]

素晴らしい探訪記です(^^)

初めてコメントさせていただきます。
久々に「畑地かんがい用水」でググってみたら、こんな素晴らしいブログに会えて、とても嬉しかったです。私も10年ほど前に辿って、ブログにつたない記事を残しています(このコメントのリンクに入れました)。私の探訪よりもはるかに詳細な調査と聞き取り。とてもワクワクしました。これから一つ一つ、ゆっくりと拝読させていただこうと思います。
これからも素敵な探訪をされますことを、お祈りいたします(^^)

  • 2014/03/25(火) 22:49:05 |
  • URL |
  • さかた(Ton) #-
  • [ 編集 ]

Re: 素晴らしい探訪記です(^^)

コメントありがとうございます。ブログの大先輩から過分なお誉めにあずかり恐縮です。私は2年前に横浜水道みちからブログを始めましたが、当時さかたさんの小倉橋の畑かん水路橋記事を参考にさせていただきました。たしかテンプレートが鳥獣戯画に出てくるようなウサギだったと思います。今は無き畑かん水路橋と横浜水道久保沢隧道水路橋を識別することが出来ました。拙ブログですがこれからもこんな調子の探訪記になると思います。水辺をたどる旅を続けていきたいと思っています。

  • 2014/03/26(水) 09:57:48 |
  • URL |
  • doushigawa #-
  • [ 編集 ]

コメリさま
コメントありがとうございます。県道42号線はただ黙々と歩くだけでした。熊倉病院前の大きな水路は貴重な体験と思います。郷土資料館の写真は興味深いです。見つけたら拙ブログで是非紹介したいと思います。

  • 2014/09/16(火) 21:38:59 |
  • URL |
  • doushigawa #-
  • [ 編集 ]

Re: タイトルなし

> コメリさま
コメリさまのコメント
管理人の操作ミスによりコメリさまのコメントが消えてしまいました。大変失礼しました。2014/9/16に以下のコメントを頂きました。
「綾瀬のやつは豚小屋のそばですよねコレ。30年ほど前に綾瀬西高校臨時校舎のわきにまとめて捨ててありましたね。市民文化センターの図書館の郷土資料館に現役時代の写真が載ってましたね。熊倉病院のわきには大きな水路みたいのがあってあれもこの時につくられたものかもしれませんね。」

  • 2014/09/23(火) 05:47:09 |
  • URL |
  • doushigawa #-
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