
やって来たのは峰山霊園の西、県立相模原公園から真っ直ぐ南へ伸びている道の南端です。道路東側、目の前の杭が陸軍用地境界杭です。サイズは15cm角、御影石製です。4面共「陸」の文字は刻まれていません。杭の上面には矢印が刻まれ、道路西側を指しています。シュロの木の根元に杭が見えます。奥の建物は相模はやぶさ学園。

上記境界杭を西から見ました。東側はこんな風景です。上面の矢印は東から西を指しています。

道路西側シュロの根元の境界杭。15cm角、御影石製です。

杭の上面を南側から見ました。中央に丸、南南東から来て北を指しています。大坂台公園東北のはずれで見た陸軍境界杭と同じ表示の仕方です。

北へ向かう一本道。約1.3km進むと県立相模原公園(相模女子大グランド前信号)に突き当たります。ここから連続する境界杭は道路を含む東側の麻溝台が陸軍用地(陸軍士官学校練兵場)、道路西側の下溝地区が民有地であったことを示しています。左側の建物は相模はやぶさ学園。

相模はやぶさ学園付近、道路西側に無造作に放置された陸軍境界杭。15cm角、長さは120cm、御影石製です。「陸」の文字はなし。

その先、道路西側の陸軍境界杭。
この道は20日に同行していただいた相武台歴史同好会のYさんによると、戦車道(せんしゃみち)と地元では呼ばれているそうです。暮れの12月7日開催「旧陸軍士官学校の周辺巡り」の講師を務めた涌田先生の著書に、陸軍士官学校には数台の戦車が配属され演習に使用していたことが記されています。相模原市の陸軍相模造兵廠(現在の米軍相模総合補給廠)で製造されたチハ式と言う戦車で貴重な演習中の写真も掲載されています。戦車道は相武台高校(現相模原青陵高校)前を東進する道と、それに交わる相武台小学校西側の小起伏の連続する道で、戦車は繰り返し走行していたといいます。
そういえば、上記の講演会資料をよく読むと「掘割の道のトンネル部分は昭和20年頃には、陸軍士官学校の修理工場、戦車等の格納倉庫として使用され民間人の通行は禁止された」と書いてあります。
陸軍の士官学校なので地上戦に欠かせない兵器である戦車訓練はあって当然ですが、かつてここに戦車が走り回っていたとは、この田園風景からは想像もできないですね。

上記杭の上面アップ。北(右)に向って矢印が刻まれています。

その先の陸軍境界杭。杭は歩測ですが約50m間隔に打ってあるようです。

矢印はやはり北(右)へ向かっています。

さて、この杭は南(左)から来て西(奥)を指しています。

杭の後方(道路)から見た西の景色です。これより西にあると思われる杭は発見出来ず。探訪はここまでです。おそらくこの先で北へ向きを変えていると思われます。

今たどってきた進行方向です。相模原ギオンスタジアムや女子美術大学の手前の交差点近くです。

おしまいに横浜水道みち関連情報です。
女子美術大学前を横浜水道みちが通っています。横浜水道みちの上、フェンスで囲った工事現場です。なにやら工事が始まったようです。


「道志川系統活性炭注入設備新設工事」の現場でした。ここは昔、下溝減圧水槽があったところです。
右側は水無月園(菖蒲田)側へ迂回案内の看板。
工事期間は平成27年1月9日~9月30日まで。
今回の参考資料です。
「郷土史としての相武台陸軍士官学校」 涌田 祐
(市立相模原図書館蔵)
今回も相武台歴史同好会のYさんのご支援により見つけることが出来ました。ありがとうございました。
次回は相模原畑かん用水路の遺構を投稿する予定です。
今回のスタート地点の位置です。
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