横浜水道みちを行く

横浜水道みちの事なら何でも知りたがり屋の管理人がその水源を目指して探索探訪をします。時には独りよがりな感想意見を述べます。

其の380 与瀬神社の例大祭・相模原市緑区与瀬

 今回はいつもの水辺歩きから大きく脱線し、番外編です。与瀬神社例大祭最大の見どころ御神輿の急階段下りを見てきました。4月15日(土)晴れ、相模原市立博物館民俗調査会・与瀬神社祭礼見学会参加記録です。

慈眼寺参道から見た相模湖
慈眼寺参道から見た相模湖(昭和22年完成の相模ダムで堰き止めた人造湖)です。慈眼寺はJR中央本線相模湖駅から歩いてすぐのところです。

慈眼寺・相模原市緑区与瀬
前方の慈眼寺左側(西側)が与瀬神社参道です。

与瀬神社赤鳥居
与瀬神社参道の赤鳥居を潜ります。

与瀬神社・五十段の階段
その先の神門を潜ると今日の例大祭最大の見どころ急な階段の下に出て来ます。
階段は五十段あり、勾配が約40°の急な階段です。この急勾配を御神輿が下ります。

与瀬神社・五十段の階段
階段の上から見るとこんな感じです。おぉ怖っ!垂直に見えます。高さは一段が25cmとして12.5mあります。私は膝に不安があるのでスロープの女坂を上り下りしました。

与瀬神社参道のシャガ
女坂に群生するシャガの花。二輪草も咲いていました。

2017与瀬神社例大祭
急な階段の上が与瀬神社です。例大祭が始まる前の本殿前の様子です。12時から神事が執り行われ、その後に御神輿が急な階段を下ります。今年は神事の見学はあきらめ、階段下で御神輿の下りを待つことにしました。

与瀬神社内・幸の神(さいのかみ)
神事が始まる前に見学した本殿北側の幸の神(さいのかみ)。洞穴は江ノ島まで続いているとか。

与瀬神社内・幸の神(さいのかみ)案内板
幸の神の案内板です。ご利益は縁結び、安産、商売繁盛。

2017与瀬神社例大祭御神輿の急階段下り
13時ちょっと前に御神輿が下り始めました。

2017与瀬神社例大祭御神輿の急階段下り
2017与瀬神社例大祭御神輿の急階段下り
2017与瀬神社例大祭御神輿の階段下り
御神輿の掛け声は「わっしょい、わっしょい」ではなく「やょーきょー、やょーきょー」です。その訳は「やょきょ伝説」に由来します。スクラムを組み、大勢の人が下で支えています。見物人も思わず力が入ります。

2017与瀬神社例大祭御神輿の急階段下り
無事階段下に着きました。下り始めておよそ8分後です。御神輿の後ろに支えのロープが見えます。

2017与瀬神社例大祭御神輿
続いて神門を潜り抜けました。

2017与瀬神社例大祭御神輿
そして神門前の階段を下ります。ここはロープなしです。女坂を下った子供御神輿が先を行きます。

2017与瀬神社例大祭御神輿
中央高速に架かる橋を渡り、急階段を下る御神輿。

2017与瀬神社例大祭御神輿
ロープで支えています。

2017与瀬神社例大祭御神輿
横から見ました。花吹雪の中を下る御神輿。

2017与瀬神社例大祭御神輿
雪のように積もった花びらの中を甲州街道へ下って行きます。まだまだ続きますが今日の見学はここまでです。

慈眼寺参道の庚申塔
おしまいに慈眼寺参道の庚申塔です。主尊は青面金剛が一般的ですがお地蔵様です。割と古い形態の庚申塔かもしれません。造立年は不詳。

与瀬神社の位置です。
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其の375 大井川の蓬莱橋を渡ってきました・静岡県島田市

 3月22日(水)晴れ、大井川に架かる世界一長い木造歩道橋・蓬莱橋を渡るため、静岡県島田市まで遠征しました。

蓬莱橋番小屋
大井川左岸蓬莱橋(ほうらいばし)のたもとにある蓬莱橋番小屋です。橋を渡る前にここで渡橋料金100円(子供は10円)を払います。蓬莱橋全長897.422mの案内柱が立っています。
ここは静岡県島田市南2−22−14。末尾に地図を載せました。

蓬莱橋・ギネスブック認定の碑
番小屋の傍らにはギネスブック認定の碑が建っています。
ギネスブック世界記録認定証書
世界一長い木造歩道橋
橋の長さ 897.422m  
橋の幅 2.700m
蓬莱橋は、1997年12月30日英国ギネス社より
「世界一長い木造歩道橋」として認定されました。


大井川蓬莱橋渡橋記念
渡橋料を払うと引き換えにこれ「大井川蓬莱橋渡橋記念」がもらえます。裏面の蓬莱橋土地改良区による蓬莱橋の由来書きに、
静岡藩藩主徳川家達が対岸の牧之原を訪れた際、茶畑を開拓する幕臣たちに「ここは蓬莱・宝の山だ。」と激励したことから。1879年(明治12年)1月13日完成。と書かれています。
蓬莱橋土地改良区? 土地改良区は農家の水利組合と認識しているのですが橋の管理が土地改良区とはなんでしょうかね。調べたところ蓬莱橋は農道だそうです。これで合点がいきました。

大井川蓬莱橋
橋のたもとから対岸を見ました。方角は南です。大井川は南流していると思い込んでいましたがこの辺りでは東流しています。従って北から南に向けて渡ります。

大井川蓬莱橋
西側から見ました。高水敷では橋脚も木造です。

大井川蓬莱橋
接近して別角度から。

大井川蓬莱橋
真下から見上げました。木造橋の構造が分かります。

大井川・蓬莱橋
低水路域に入りました。「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と箱根馬子唄にも歌われた大井川。この程度なら楽に越せそうです。約1kmもある広い河道内に幾筋もの水路が走っています。

大井川蓬莱橋
その先、別の水路です。上流を望む。
江戸時代、東海道島田宿から対岸の金谷宿への渡しはここより上流の現在の島田市博物館辺りから右岸の新金谷駅付近のルートでした。川越人足が肩車や輦台でその任にあたり旅人が勝手に渡ることは厳しく禁じられていました。

大井川蓬莱橋
渡り始めて10分近く。対岸を望む。

大井川蓬莱橋
対岸近く最後の広くて深そうな流れです。上流を望む。江戸時代にこの流れではプロの川越人足でも難儀しそうです。帰りに島田市博物館へ寄ったのですが、大井川の渡しでは水深により異なる渡し賃が設定されていたそうです。

広重の東海道五十三次嶋田宿
広重の東海道五十三次 嶋田
(読売新聞 歌川広重東海道五十三次上巻より)
対岸の金谷宿へ渡る大名行列の川越の様子が描かれています。画像をクリックすると拡大します。

広重の東海道五十三次金谷宿
広重の東海道五十三次 金谷
(読売新聞 歌川広重東海道五十三次上巻より)
大井川を越え対岸の金谷宿へ到着した大名行列の一行。

大井川蓬莱橋際マムシ注意看板
右岸堤防下へ下り口の「まむし(毒へび)に注意」の看板。今の季節は心配ないですがもうじき出てくるでしょうね。いかにも棲んでいそうなところです。早く来て良かったです。

大井川蓬莱橋
右岸堤防下より蓬莱橋を望む。橋脚は鉄筋コンクリート製です。地元の人の話では地上部と同じ長さが地中に埋まっているそうです。昔は木製だったのが大雨のたびに流されたので20年位前に今の形になったそうです。

大井川蓬莱橋
右岸展望広場より蓬莱橋を望む。蓬莱橋のたもとに土産物屋があります。その裏の祠前の小道を上ると展望広場です。

大井川蓬莱橋
折り返し左岸の番小屋へ戻ります。眼前の木製の橋は真新しく改修してあります。橋の管理者である蓬莱橋土地改良区によるものでしょう。

さて、右手前方に富士山の絶景が望めるはずですがあいにく雲がかかってしまいました。予報は冬型の気圧配置だったので少々寒くともくっきり見えると踏んだのですが・・・。

東名高速富士川SAより富士山を望む
ここへ来る途中の往路、東名高速富士川SAから富士山を仰ぐ。午前中はこんな天気でした。相模原に住む者には憧れの富士山の絶景です。休憩して良かったですね・・・。(^σ^)

蓬莱橋の位置です。

其の372 旧国鉄西寒川駅跡を訪ねる・神奈川県寒川町

 前回で終えた目久尻川源流を訪ねるシリーズの一回目は相模川合流点(目久尻川河口)からスタートしました。JR相模線寒川駅から河口へ向かう途中、西寒川駅跡を見つけました。かつて相模線に支線があり今は廃線になっていることを初めて知り興味を持ちました。3月16日(木)晴れ、改めて探訪しました。

「旧国鉄西寒川駅 相模海軍工廠跡」の碑
八角広場に建てられた「旧国鉄西寒川駅 相模海軍工廠跡」の碑です。初めて碑を見た時は「えっ、こんなところに駅が?!」とびっくり。碑にはこんなことが刻まれています。

旧国鉄西寒川駅 相模海軍工廠跡の碑
ここ旧国鉄西寒川駅跡に佇んで東を望み、更に南に目を転ずるとその視界に工場群が迫る。そこは、かつて多くの仲間が営々と働いた相模海軍工廠(昭和20年 敷地704,000㎡)の跡地である。往時を偲べば、先人や友の姿が彷彿と甦り、懐旧の想いひとしおである。第二次大戦後、工場立地に恵まれ、跡地は町発展の礎となり、今日の繁栄をもたらした。いま台地に深く根差した縁に世界の平和を願い国土の安穏を祈る。
建立 相廠会及び協力企業  昭和63年春
  (碑文より)

碑文から戦時中は西寒川駅が海軍工廠で働く人たちの足として、また寒川町HPによると戦後は跡地が工業団地となり昭和35年工業団地で働く人たちのため旅客輸送を再開し(一日4往復)、昭和59年3月 西寒川支線廃止まで通勤客を運んでいたことが分かります。

八角広場の西寒川支線跡
碑の北側に線路が遺されています。広場内の案内板によると八角広場は旧国鉄西寒川駅跡地で西寒川支線跡地を利用して昭和60年から整備した一之宮緑道の南端になります。北東の端は寒川神社表参道一の鳥居付近まで、延長約900mの緑道です。

寒川町一之宮の工業団地
八角広場から見た東南方向の工業団地。

1927~1939(昭和2~14)年にセットした今昔マップです。(今昔マップon the webより)
西寒川支線は貨物線とあり、海軍工廠はまだなく桑畑でした。大きな地図は右欄サイドバーからリンクできます。検索窓に「寒川駅」と入力すると開きます。1944~1954(昭和19~29)年に切り替えると工場が見えます。

寒川町の一之宮緑道
西寒川支線をたどってみることにしました。

寒川町の一之宮緑道
沿道に早やくもコブシの白い花が咲いていました。

一之宮緑道・車輪のモニュメント
モニュメントとして車輪が置かれていました。一之宮公園丸太の広場付近。

寒川町の一之宮緑道
一之宮公園付近で線路が復活。桜が多いので花期が楽しみです。

一之宮緑道・車輪のモニュメント
線路が終わったところでまたモニュメント車輪です。

寒川町の一之宮緑道
両側がカツラ並木の緑道。カツラは高さ25mにもなる落葉高木で秋になると形の良いハート形の葉っぱが美しく紅葉します。低木はドウダンツツジ。四季折々色彩の変化を楽しめそうです。

寒川町の一之宮緑道ゲート広場
一之宮緑道北東の終点(起点)県道47号線沿いゲート広場の道標。

西寒川支線跡
県道47号線を渡ると線路跡敷地が残っています。

西寒川支線跡
線路敷地右側の小道を進むとJR相模線へ出てきます。相模線のこの辺りにポイントがあったのでしょうか? 寒川駅は500mほど先にあります。
今回の廃線路探訪は短いうえに整備された緑道だったので楽な歩きでした。あっという間に終了です。

寒川神社表参道一の鳥居
県道47号線沿いゲート広場から北方を見ました。寒川神社の表参道一の鳥居です。ここから続く寒川神社の森は神奈川の美林50選に選定されています。表参道から別の目的地へ向かったので次回発表します。

八角広場の位置です。


其の348 玉電砧線を歩く・東京都世田谷区

 12月12日(月)晴れ、「其の346渋谷町水道みちを歩く②」で知った玉電砧線を歩いてきました。玉電砧線は昭和44年に廃線になった路面電車ですが、どのようなルートを走っていたのか興味を持ちました。幸い今昔マップと言う重宝な地図があるので廃線になった軌道跡をたどることができます。


(1965~1968)(昭和40年~43年)にセットした今昔マップです。今昔マップon the webより。
中心は現在の田園都市線・大井町線二子玉川駅です。二子玉ライズドックプラザから西方に伸びているのが玉電砧線です。当時玉電と大井町線の駅は少し離れていました。

二子玉川駅前玉川通り
二子玉川駅前、玉川通りに面した右側のビルが二子玉ライズドックプラザです。

玉電砧線跡
二子玉ライズドックプラザの北側から田園都市線を見ました。駐輪場の辺りを砧線は走っていたと思われます。今昔マップによるとここから左カーブして西方へ向かっていました。

玉電砧線跡
左カーブの軌道跡は見当たりませんがR246・玉川通りに出ると、世田谷信金北側一方通行入り口の細い道が玉電砧線に一致しています。

玉電砧線跡
そのまま進むと左側に並行してレンガ敷き遊歩道が出現します。これが砧線軌道跡です。

砧線中耕地駅跡
遊歩道にこんなタイル絵が埋め込まれています。
「砧線中耕地駅跡」。

玉電砧線中耕地駅跡
中耕地駅跡です。確かに駅停車場分だけ遊歩道幅が広くなっています。

玉電砧線中耕地駅跡
遊歩道に埋め込まれた中耕地駅のタイル絵。砧線は単線だったんですね。

玉電砧線中耕地駅跡の碑
世田谷区・世田谷地団協が立てた砧線中耕地駅跡の碑。
吉澤駅←砧線中耕地駅→二子玉川駅。

玉電砧線軌道跡
西へ向かう砧線軌道跡遊歩道。

マンホールフタに描かれた玉電
遊歩道マンホールフタに描かれた玉電。

砧線軌道跡オブジェ
こんな記念碑オブジェもありました。「砧線軌道跡」。

玉電砧線軌道跡
ドウダンつつじの砧線軌道跡遊歩道。

玉電砧線軌道跡
車道との境界にも砧線の玉電の電車が。レールも使われています。玉電を偲ばせるものが至るところにあります。地域の人々に愛される玉電砧線。駒沢給水塔と相通ずるものがあります。

玉電砧線軌道跡
左へ急カーブして多摩堤通りへ出てきました。

玉電砧線軌道跡・吉澤橋
多摩堤通りを横断し野川に架かる吉澤橋までやって来ました。橋の手前に吉澤駅がありました。

野川の吉澤橋
野川左岸下流から見た吉澤橋です。昔、玉電砧線の電車はここを鉄橋で渡っていました。

吉澤橋の「玉電と吉澤記念碑」と電車のレリーフ
吉澤橋の「玉電と吉澤記念碑」と電車のレリーフ。
この橋は関東大震災直後1924年(大正13年)玉電砧線開通に合わせて架けられた鉄道橋でした。砧線は現在の二子玉川駅と砧本村を結ぶ約2.2kmの路面電車で、人々の通勤通学手段としてだけでなく、関東大震災復興のため多摩川の砂利を都心方面へ運搬するため大きな貢献を果たしました。しかし、その後車社会の到来とともに路面電車は姿を消すこととなり、1969年(昭和44年)玉電は世田谷線を除き全線廃止となりました。廃止後は道路橋として世田谷区に移管され今日に至っています。この度、野川の河川改修に合わせて上流の吉澤橋と新吉澤橋を統合し、新しい吉澤橋に架け替えました。平成19年3月 (記念碑碑文より)

吉澤橋・玉電のレリーフ
玉電のレリーフです。

野川を渡る吉澤の鉄橋風景
野川を渡る吉澤の鉄橋風景 昭和36年 (玉電・砧線)。
(玉電と吉澤記念碑写真より)画像をクリックすると拡大します。

玉電砧線軌道跡
吉澤橋を渡り西へ向かう玉電砧線軌道跡。

玉電砧線軌道跡
その先、三角公園付近の玉電砧線軌道跡。

玉電砧線軌道跡
その先で二股に分かれます。左は砧下浄水所外周道、右が砧線です。

玉電砧線軌道跡・鎌田二丁目南公園付近
右側の道に入り直進すると鎌田二丁目南公園に突き当たりました。昔の玉電砧線終点、砧本村駅(きぬたほんむらえき)はこの辺りです。駅跡を思わせるものは何も残っていないです。

砧本村バス停
公園の西側は東急バス砧本村バス停広場になっていました。

砧本村バス停広場境界柵
これは砧本村バス停広場の鉄筋コンクリートの境界柵です。中耕地駅のタイル絵に描かれた柵にそっくりです。もしかしてこれが砧本村駅の遺構かも知れないですね・・・。

玉電砧線中耕地駅跡
参考に中耕地駅のタイル絵です。形状、間隔、横木の数など、本当によく似ています。

帰りはちょうど来た東急バスで二子玉川駅へ向かいました。
今回はいつもの水辺歩きではなく廃線路歩きとなりました。
「横浜水道みちを行く」が廃線路を歩きましたが、なかなか面白かったですね。拙ブログの性格は芋づる式探訪記なのでどこへ飛ぶか私自身もわかりません。これに味をしめどこかまた廃線路を探訪するかも知れません。次回は水辺歩きに戻ります。

今日のスタート二子玉川駅です。

其の311 河骨の花を見てきました・海老名市上今泉

貫抜川放水路の河骨(コウホネ)に続いて海老名市内のもう一か所のコウホネ育成地を訪ねました。黄色の美しい花をいっぱい見てきたので発表します。6月26日(日)晴れの日に行ってきました。

産川せせらぎ公園・海老名市上今泉
相鉄線かしわ台駅から右手へ坂道を下ると目久尻川に架かる産川橋(さんがわばし)に出てきます。これは産川橋交差点角のコウホネ育成地・産川せせらぎ公園です。せせらぎの中にコウホネの黄色い花が咲いています。せせらぎは湧水なので澄みきった流れです。下流は北部公園から目久尻川に注いでいます。

産川せせらぎ公園の河骨の花・海老名市上今泉

産川せせらぎ公園の河骨の花・海老名市上今泉

産川せせらぎ公園の河骨の花・海老名市上今泉
貫抜川放水路とは違って公園なので間近でコウホネを観賞できます。

産川せせらぎ公園の河骨の花・海老名市上今泉

産川せせらぎ公園の河骨の花・海老名市上今泉
半開のコウホネの花。緑色のつぼみもあります。花期は6月から9月と長く見られるのが良いですね。

産川せせらぎ公園の河骨の花・海老名市上今泉

産川せせらぎ公園の河骨の花・海老名市上今泉
満開のコウホネ。図鑑によると五弁の花びら状に見えるのは萼片で中に無数にあるのが花弁だそうです。それにしてもこのきれいな花を咲かせる植物名が河骨(コウホネ)とはちょっと可哀そうですね。河に生え、根茎が白骨のように見えるのが名前の由来だそうです。

河骨保護の会案内板
河骨保護の会の案内板。「神奈川県下で、コウホネの自生が確認されたのはここ海老名市だけです」とあります。

海老名市北部公園
産川せせらぎ公園の流れは北部公園のせせらぎとなり子供たちの遊び場になっています。ザリガニ釣りの大人もいました。

産川橋より目久尻川下流を望む
産川橋より目久尻川下流を望む。澄んだ水で水深があります。

このあとこれより下流で思いがけずファブリダム(ゴム堰)を見つけ、そこから始まる農業用水路を終点までたどりました。次回発表いたします。

産川せせらぎ公園の位置です。



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