横浜水道みちを行く

横浜水道みちの事なら何でも知りたがり屋の管理人がその水源を目指して探索探訪をします。時には独りよがりな感想意見を述べます。

其の463 お台場へ行ってきました・東京都港区台場

 世間ではよく知られた「お台場」。以前から興味があり一度は訪ねたいと思っていました。タイミングよく相模原市立博物館の民俗探訪会でお台場他を巡る企画があり参加しました。今回は水辺歩きの番外編です。

都立台場公園(第三台場)
2月14日(水)晴れ、最寄の東京テレポート駅からお台場海浜公園にやって来ました。対岸は高層ビル群。右側石垣が「お台場」です。目の前の砂浜は人工的な砂浜で伊豆諸島の神津島の砂を使用しているそうです。

都立台場公園(第三台場)
お台場海浜公園の砂浜はお台場につながっています。右手へ進みます。

お台場海浜公園の河津桜
途中見たお台場海浜公園の河津桜。1週間ほど前に姥川沿いで膨らみ出したつぼみを見たばかりです。

都立台場公園(第三台場)
お台場海浜公園から階段を上ってお台場に上陸しました。

都立台場公園(第三台場)
上陸地点から見たお台場の中の様子。お台場海浜公園からは全体がフラットな台地に見えたのですが中は平らな窪地になっています。お台場は正式名「都立台場公園(第三台場)」と言います。

都立台場公園(第三台場)平面図
都立台場公園案内板の「台場平面図」です。
案内板によると周りは海面から高さ5~7mの石垣積みの土手。土手には黒松が植えられ、平坦な窪地には陣屋、弾薬庫跡がある。
「お台場」の名で知られる品川台場は、江戸幕府が黒船来襲にそなえて、品川沖に築いた砲台跡。ペリーが浦賀に来航した翌月の嘉永6年(1853)8月着工、1年3か月で6基が完成。その内第三台場と第六台場が現存する。
 (案内板より抜粋)

第六台場
第三台場西の第六台場。第三台場も周りは海でした。昔のお台場を知るには今昔マップという重宝な資料があります。

今昔マップです。(今昔マップon the webより)

1896~1909年にセットした今昔マップです。中央が第三台場。年代を変えることにより周辺の埋め立てを含め変遷が解ります。大きな地図は右欄サイドバーからリンクできます。

以下は台場公園(第三台場)内の施設跡です。
都立台場公園(第三台場)砲台跡
土手上、南向きのコンクリート製砲台が2基。位置表示のための復元?と思われます。

都立台場公園(第三台場)かまど場跡
かまど場跡。江戸時代のものではないそうです。

都立台場公園(第三台場)陣屋跡
陣屋跡です。グループから離れ勝手に歩き回っています。

都立台場公園(第三台場)階段と弾薬庫跡
東側角地の階段とその右側は弾薬庫跡。土手の南面と西面に弾薬庫があります。敵艦は南、西方向から撃ってくると想定したのでしょう。

都立台場公園(第三台場)北側角の通路
北側角地の通路。石垣が途切れています。物資搬入用でしょうね。石垣左側に東京市の史蹟記念碑が立っていました。

都立台場公園(第三台場)北側角の船着き場
通路の先には船着き場があります。

ゆりかもめからの眺め
お台場見学後ゆりかもめで新橋に向いました。最後尾車両からの眺め。

旧新橋停車場プラットホーム
旧新橋停車場・鉄道歴史展示室を見学しました。
レストランライオンから見た旧新橋停車場のプラットホーム。

旧新橋停車場のゼロ哩標識
プラットホーム東側の「ゼロ哩(マイル)標識」と復元された双頭レールの線路。

愛宕神社の出世の石段
次に大神輿が有名な烏森神社を訪ねたあと愛宕神社へ。曲垣平九郎が馬で駆け上がった出世の石段です。

愛宕神社の出世の石段 愛宕神社の出世の石段
おしまいに石段真下からと参拝後に真上から見た出世の石段。帰りは女階段で下りました。

このあと増上寺、泉岳寺へ向かいましたが今回はこの辺で・・・。

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其の445 中津川の廃橋/ほんとうの海底橋を訪ねる・神奈川県愛川町角田海底

 「其の443」で中津川の廃橋を取り上げました。現地の車両通行禁止看板に海底橋(おぞこばし)とあり、廃橋の名前は海底橋と思い込んだのですが記事を書きながらどうもおかしいと気付きました。あれこれ考え行動した結果ほんとうの海底橋が分かったので発表します。

中津川の廃橋・愛川町角田幣山
廃橋の写真を再掲します。(クリックで拡大します。)車両通行禁止看板の右肩に「海底橋」とあり青色ペンキで塗りつぶしてあります。左側に看板設置者の名前が「愛川町・角田区 厚木警察署」とかろうじて読み取れます。
この写真情報を元に「愛川町廃橋海底橋」でググると当然のようにこの廃橋の記事・画像共多数ヒットします。廃橋の名称が「海底橋」と定着してしまった感があります。嘘からでた誠と言うか誤解からでた誠になっていますね・・・。

私がおかしいなと感じた点は
(1) ここは愛川町角田幣山と言うところです。幣山に在る廃橋なのに海底橋とはこれ如何に?
(2) 海底地区はここより西方、角田大橋上流右岸にある集落です。
(3) 看板の青ペンキは誰が塗ったか?
世の中には公共施設にペンキで落書きをする不心得者がいます。初めは不心得者の仕業と思いました。しかし看板設置者が塗ったとすればどうでしょう? 私はほんとうの海底橋に掛かっていた注意看板をこの廃橋(当時は現役の橋)に流用したのではと推測しました。素直に読めばこの橋は海底橋ではありませんよと言っているわけです。

こんな時頼りになるのが今昔マップです。海底集落の橋の所在を確認しました。想像通り架橋されていましたよ。(^σ^)

今昔マップ(今昔マップon the webより)


(1)1965~1968年にセットした今昔マップです。
橋名表示はありませんが海底・戸倉間の橋が海底橋です。右側下流にある橋が幣山の廃橋(当時は現役の橋)です。
(2)次に年代を1983~1987年に切り替えると海底橋がなくなり下流に橋が出現します。現在の角田大橋です。幣山の橋はまだ健在です。この頃に海底橋の車両禁止看板を幣山の橋へ流用したものと思われます。
(3)1992~1995年に切り替えると幣山の橋も消えています。角田大橋の完成により二つの橋は役目を終えたことが分かります。
大きいサイズの今昔マップは右欄サイドバーからリンクできます。(検索窓に「愛川町海底」と入力)

海底・戸倉間に架橋されていた海底橋の写真は愛川町HP「写真で振り返る愛川町・60年の歩み」に角田・海底橋(昭和8年)として掲載されています。
車両通行禁止の看板は元々この橋のたもとに掛かっていました。写真にあるように吊橋でした。

中津川海底より対岸の戸倉を望む
これは中津川右岸の海底から対岸の戸倉を見たところです。大きな建物は介護老人保健施設せせらぎ。海底橋はここに架かっていました。海底橋の基礎部分の遺構があるそうですがこのように草が生い茂り確認できなかったですね。

中津川の廃橋・愛川町角田幣山
残る疑問です。この幣山の廃橋は現役の頃なんと呼ばれていたのでしょう? ちゃんとした名前があったはずです。
愛川町役場に照会して教えてもらいました。
地区の古老の話では特に正式名称はなかった。橋の鉄材が赤く塗装されていたことから「赤っぱし」と呼ぶ人もいた。「通行禁止」看板は、かつての「海底橋」の「通行禁止」看板を再利用した。

と言うことで特に正式名称はなかったそうです。看板再利用については私の推測通りでした。


今回は「海底橋は海底にあった」と言う話をしました。おしまいに海底集落の様子をちょっとだけご覧ください。

愛川町海底 日月神社
愛川町海底 日月神社の庚申塔
海底公民館の南、高台にある日月神社と庚申塔です。青面金剛は腕二本で合掌しています。六本腕(六臂)をよく見かけますがこの像は二本です。邪鬼や三猿も彫られています。造立年は不明。

愛川町海底・海底沢
海底沢橋・愛川町海底
海底沢と海底沢橋。相模湾から離れた内陸なのに「海底」とは面白い地名です。愛川町郷土資料館に地名の由来を書いた本があります。閲覧しましたが詳しすぎて(事細かく載っています)紹介しきれません。要点をいずれまた。

次回も中津川を取り上げる予定です。


其の443 中津川の廃橋を訪ねる・神奈川県愛川町角田幣山

 前回「其の442」の続きです。今回は丸山耕地水利組合の用水路終点、余水吐兼排水ゲートのすぐそばにある廃橋を取り上げます。少し詳しく記述するつもりでしたが調査に時間がかかりそうなので今回は見たまんまをお伝えします。
12月12日(火)、18日(月)に探訪しました。

中津川の廃橋・愛川町角田幣山
これが廃橋です。丸山耕地水利組合の余水吐兼排水ゲートは仮設トイレの右側にあります。

中津川の廃橋・愛川町角田幣山
柵があり車両通行禁止の看板が掛かっています。右肩に「海底橋」とあり青ペンキで塗りつぶしてあります。(クリック拡大)

中津川の廃橋・愛川町角田幣山
手前の方はコンクリート舗装がしてあり、橋脚もコンクリートです。

中津川の廃橋・愛川町角田幣山
石垣の橋台。正面奥に丸山耕地水利組合排水施設の黄色い注意看板が見えます。

中津川の廃橋・愛川町角田幣山
中津川の廃橋・愛川町角田幣山
その先でコンクリート舗装から鉄板敷き、橋脚は鉄骨に変わります。欄干も無くなっています。橋が中途で落ちています。
対岸(左岸)の堤防が途切れています。栗沢の河口です。横切る白いガードレールは横須賀水道みちです。

中津川の廃橋・愛川町角田幣山
橋から逆方向、右岸の集落を見ました。ここは愛川町角田幣山です。海底は愛川町角田の字名で「おぞこ」と読みますが角田大橋より上流の右岸沿いにその集落はあります。海底公民館とか海底沢橋にその名が見られます。

以下は河道内から見た廃橋です。
中津川の廃橋・愛川町角田幣山
中津川の廃橋・愛川町角田幣山
中津川の廃橋・愛川町角田幣山
中津川の廃橋・愛川町角田幣山
河道内を歩きました。今の季節だからこそ可能です。夏は葦や萱が繁りとてもじゃないがまず無理でしょう。

中津川の廃橋・愛川町角田幣山
中津川の廃橋・愛川町角田幣山
おしまいに対岸の栗沢河口付近から見た廃橋です。河口付近に廃橋の残骸らしきものは残っていなかったですね。

この廃橋については私なりに思うところあり。もう少し究明します。明らかになり次第もう一度取り上げる予定です。

廃橋の位置です。

其の426 旧国鉄蛇松線跡を歩いてきました・静岡県沼津市

 9月29日(金)晴れ、拙ブログ読者地元ティーさん推奨の旧国鉄蛇松線跡を歩いてきました。蛇松線は緑豊かな蛇松緑道として生まれ変わり、緑道を歩けば今でも昔の面影をしのぶことができます。

蛇松線・2120型タンク機関車
旧国鉄蛇松線にはかつてこんなSLが走っていました。
「2120型 タンク機関車 沼津港・沼津駅間」
(千本港町旧蛇松線沿線の案内板より)

蛇松緑道案内板
沼津市が立てた蛇松緑道の案内板です。蛇松線とは?そのあらましが書いてあります。クリックで拡大します。
明治20年、東海道本線建設の資材運搬のため貨物線として敷設。区間は狩野川河口右岸蛇松と沼津停車場設置場所。
明治21年から昭和49年までおもに石油、木材、魚を運ぶ貨物線として活躍。車社会の台頭により昭和49年廃止。
その歴史を伝えるため昭和57年、蛇松緑道として生まれ変わった。
(案内板より要約)

観音川を渡る蛇松線橋台跡?
JR沼津駅南口からスタートしました。引込線を見たかったのでなるべく東海道線の線路沿いを歩きました。駐輪場を過ぎその先の観音川子持川で橋台?とおぼしき跡を見つけました。蛇松線の引込線は観音川子持川を鉄橋で渡っていたと思われます。右手が沼津駅方向です。

城内橋より観音川上流を望む
城内橋から観音川子持川上流を見ました。突き当りは東海道本線です。左側の建物は沼津通運倉庫。

旧国鉄蛇松線跡・沼津通運倉庫
沼津駅南口から西へ通じている大通りから沼津通運倉庫を見ました。カーブした構内通路があり乗用車が駐車しています。右側の段差はプラットホームのように見えます。よく見ると奥に線路が見えます。

旧国鉄蛇松線跡・沼津通運倉庫
ズームアップしました。レールが残っています。蛇松線の明確な遺構を見つけました! 先ほど見た橋台の延長線上と思われます。

蛇松緑道起点(終点)
上記から大通り南側の蛇松緑道の起点(終点)が見えます。
木製の立派な蛇松緑道の看板が掲げてあります。

蛇松緑道
蛇松緑道内は雑多な木が植えてあります。ここは桜並木です。緑道は全般に大きく左カーブしています。

観音川
今日冒頭で見た観音川子持川下流です。幸橋を渡りました。観音川(子持川の下流部)河口は沼津港内港です。次回の沼津港の治水施設でも登場します。

蛇松緑道
緑道のど真ん中に植えられた大木。楠でしょうか?

蛇松緑道内「幸いの池」
蛇松緑道「幸いの池」です。細長い川のような池です。

蛇松緑道
温暖な地らしい南国の木が植えてあります。案内板によると緑道に植えられた樹種は120種類に上るそうです。

蛇松緑道・千本東町分岐点付近
緑道左手が芝生の広場まで来ました。この先で沼津港へ直進する道と分岐し、緑道は左カーブして狩野川の方へ向かいます。

蛇松緑道・千本東町分岐点
分岐点です。左へ歩を進めます。あとからまたここへ戻ります。

蛇松緑道(終点)起点のモニュメント
分岐点から250m位先の蛇松広場に到着しました。
蛇松線の車輪、信号機がモニュメントとして展示してあります。
この奥は狩野川右岸堤防です。ここが蛇松線の終点(起点)蛇松駅で当時はこの辺りにプラットホームがあったのでしょう。
ここは沼津市蛇松町です。蛇松広場の案内板に蛇松の由来が書いてありました。
その昔この地に蛇のようにくねった松がありその松を蛇松と呼ぶようになった。貨物線の起点がこの近くに建設されたのでこの線を蛇松線と称した。戦後住宅が増えたので町名も蛇松町と呼称するようになった。 (案内板より)

蛇松
蛇松です。(千本港町の旧国鉄蛇松線案内板写真より)

狩野川・蛇松線終点付近
狩野川右岸堤防に上りました。港大橋が見えます。海上輸送された資材をこの辺りの港から陸に揚げ蛇松線で沼津駅まで運んだのでしょう。それらしい雰囲気は残っていないですね。

蛇松緑道・千本東町分岐点
分岐点まで戻りました。沼津港へ向かう蛇松線跡です。なんとレールがそのまま残っています。

沼津港へ向かう蛇松線
沼津港へ向かう蛇松線
そのままたどって行きます。前方で県道159号線と交差しています。レール間隔はいわゆる狭軌です。

沼津港へ向かう蛇松線
県道を渡り佐政水産前で復活しました。前方は千本港町交差点です。
なお佐政水産前に冒頭の写真「2120型 タンク機関車」や「蛇松」の写真入り案内板があります。

沼津港へ向かう蛇松線
千本港町交差点前です。蛇松線のレールを見たのはこれが最後です。

沼津港へ向かう蛇松線・沼津みなと新鮮館前
信号を渡りレールの延長線上です。建物は沼津みなと新鮮館です。通路幅はちょうど蛇松線のような感じですね・・・。

蛇松線・沼津港沼津魚市場前
その先はプラットホーム状の沼津魚市場です。分岐した蛇松線はここまで入って来たのでしょう。直進すると狩野川右岸の巨大堤防に突き当たるのでここが終点です。現在ここでは魚のセリは行われず奥の沼津魚市場INO(イーノ)で取引をしているそうです。

沼津港内港・沼津魚市場前
沼津魚市場の西側は沼津港内港です。漁船が停泊しています。

沼津港内港・沼津魚市場INO(イーノ)と「びゅうお」
上記から西を見ると左側に沼津魚市場INO(イーノ)があり、その奥に巨大水門「びゅうお」が見えます。

旧国鉄蛇松線探訪記はここまでです。地元ティーさんには蛇松線の紹介ありがとうございました。次回は「びゅうお」ほか沼津港の治水施設について投稿いたします。

観音川子持川の鉄橋跡と思われる位置です。

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其の396 「軍都さがみはら探訪」・神奈川県相模原市

 6月4日(日)晴れ、相模原市立博物館主催の「軍都さがみはら探訪」に参加しJR横浜線矢部駅から淵野辺駅までその痕跡を巡りました。私の狙いはあわせて陸軍敷地境界杭を見つけることでした。幸い一本のみですが実現し、私的には収穫ありの探訪会でした。

軍都相模原の軍関連施設位置図
かつて相模原は軍都相模原と言われたように数多くの陸軍関連施設がありました。
相模原の軍関連施設の分布です。緑色は旧相模原町域、ピンク色が軍関連施設(相模原市史文化遺産編より)。
主な施設は相模陸軍造兵廠、陸軍兵器学校、相模原陸軍病院、陸軍通信学校、陸軍機甲整備学校、陸軍士官学校、臨時東京第三陸軍病院など。画像をクリックすると拡大します。

相模陸軍造兵廠跡の碑
JR横浜線矢部駅に集合し博物館学芸員さんの案内で探訪スタートです。駅近くの公園に設置の相模陸軍造兵廠跡の碑です。碑の裏面に詳細な沿革が刻まれています。

相模陸軍造兵廠への引込線跡
横浜線から相模陸軍造兵廠への引込線跡(柵の中)が残っていました。レールは見えなかったのですが当時相模陸軍造兵廠で生産した砲弾や火砲牽引車、時には戦車(97式戦車中戦車・チハ車)などを鉄道輸送したと思われます。相模陸軍造兵廠には2万人がその製造に従事していました。


今昔マップに表示されています。(今昔マップon the webより)
1944~1954年にセットしました。左側の昔マップを動かしてください。引込線の様子が分かります。

旧相模陸軍造兵廠・現米陸軍補給廠
旧相模陸軍造兵廠は、現在米陸軍補給廠として使われています。ブロック塀にU.S.Army Japanの警告看板が見えます。

陸軍兵器学校の敷地境界杭
旧相模陸軍造兵廠の道を挟んだ南隣は陸軍兵器学校でした。お目当ての陸軍敷地境界杭です。「陸軍用地」と刻んであります。陸軍兵器学校は昭和13年に東京小石川から移転しました。この杭は今から80年ほど前に陸軍敷地境界に打たれた杭です。

陸軍敷地境界杭・相模原市立博物館蔵
陸軍兵器学校の敷地境界杭は相模市立博物館に常設展示されています。こちらの杭は「陸軍」と刻まれています。
「其の192 陸軍の境界杭・旧陸軍士官学校周辺」より。

陸軍兵器学校弾薬庫跡
これは兵器学校北端の旧弾薬庫です。希少な陸軍施設跡です。現レンジフードメーカー富士工業の一画に残っています。

陸軍兵器学校正門跡付近
いちょう並木通り淵野辺一丁目交差点付近です。この辺りに陸軍兵器学校正門がありました。

陸軍工科兵器学校跡の碑
陸軍工科兵器学校跡の碑
上記付近、ヒマラヤスギ下の陸軍工科兵器学校跡の碑。当初は陸軍工科学校で昭和15年に陸軍兵器学校と改称されました。

探訪資料によると陸軍兵器学校には学生、軍属あわせ戦争末期には5,000人もの人がいたそうです。歩いてみても、当時の建物等はほとんど残っていません。跡地は麻布大学、防衛省装備研究所、民間企業の工場等に変わり、石碑等により当時の痕跡を窺い知るのみです。

陸軍敷地境界杭については2、3年前に相武台の陸軍士官学校周辺を探し回り「其の192」以下で発表しました。横須賀水道みち半原系統で見られる海軍の境界杭4種類は「其の188」にまとめました。

JR横浜線矢部駅の位置です。


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