横浜水道みちを行く

横浜水道みちの事なら何でも知りたがり屋の管理人がその水源を目指して探索探訪をします。時には独りよがりな感想意見を述べます。

其の478 旧藤野町の石像物を訪ねる・神奈川県相模原市緑区牧野

 今回は、いつもの水辺歩きとは違って石像物が主役です。
4月11日(水)晴れ、相模原市立博物館のフィールドワークに参加し旧藤野町牧野(まぎの)地区を歩き石像を多数見てきました。

馬本生活改善センター(旧向龍寺観音堂)
JR中央線藤野駅からやまなみ温泉行きのバスに乗り馬本バス停下車。最初にやって来たのが馬本生活改善センター(旧向龍寺観音堂)です。

馬本生活改善センター(旧向龍寺観音堂)の石像群
馬本生活改善センターの庭に集められた石像です。以下、主なものを取り上げます。

馬本生活改善センター(旧向龍寺観音堂)の水神像
馬本集落の生活用水路取入口に水を清めるために祀られていた水神さまです。龍が剣に巻き付いています。簡易水道が出来たのでここに移し保存されています。

馬本生活改善センター(旧向龍寺観音堂)の庚申塔
庚申塔です。造立は享保十四己酉(1729)と読み取れました。先日見た比留川の子育て観音前の庚申塔・寛政四年(1792)と似ています。

牛頭観音と馬頭観音
賽の神バス停付近の左から牛頭観世音(昭和56)、馬頭観世音(明治39)。造立者は個人名です。貴重な労働力に感謝して建てたのでしょう。

天神搭・牧野馬本
後ろ側のマウンド上の天神塔です。丸石製は珍しいそうです。

フデリンドウ・牧野馬本 ヒトリシズカ・牧野馬本
周りに咲いていたフデリンドウとヒトリシズカです。
画像(他の画像も)をクリックすると拡大します。

牧野地区馬本の風景
馬本から中尾へ向かう途中の風景。「山笑う」ですね!(^σ^)

仲尾生活改善センターからの牧野地区の眺め
高台の中尾生活改善センターより牧野地区の眺め。

御霊神社の如意輪観音像
中尾生活改善センター前の御霊神社本殿脇の如意輪観音像です。立膝で右の頬に手を当てています。虫歯の痛みがある人はお参りをすると治るそうです。

庚申塔・相模原市緑区牧野中尾
その先で見た二石六地蔵に挟まれた庚申塔です。一石六地蔵はときどき見かけますが二石は初めて見ました。六臂の青面金剛の表情が怖いですね。日輪月輪に輪宝も持っています。定番の三猿も刻まれています。造立は享和年間。

神原家土塁
次の目的地は大久和の神原家です。神原家の広大な屋敷東側の土塁を右手に見ながら進みます。いつも最後尾をついて行きます。

神原家長屋門・牧野大久和

神原家の文化庁登録有形文化財証 神原家案内板
丘の上にある神原家長屋門と文化庁登録有形文化財証と神原家の案内板です。

八幡神社・牧野中尾
次に向かったのが中尾の八幡神社です。牧野郷の氏神で祭神は応神天皇です。社殿右側の杉の巨木が神奈川県の銘木100選に選定されています。

八幡神社の大杉
樹齢500年、樹高40m、胸高周囲6.1mもある杉の巨木。しめ縄が張ってあります。昭和59年神奈川県銘木100選に選定。

ヤマルリソウ・牧野中尾 ヤマブキ・牧野大久和
道端の崖に咲くヤマルリソウとヤマブキ。

神奈川CC入口の石像群
次いで大鐘の神奈川CC入口の石像群です。ゴルフ場内に放置されていたものを永久保存するために集めたもので、像の案内板も立っています。以下に3点を紹介します。

閻魔大王の像・牧野大鐘
閻魔大王の像。嘘を吐くと舌を抜かれるというあの閻魔様です。子供の躾けのために建てられたのでしょう。延享二年(1745)造立。

馬頭観音像・牧野大鐘
一見すると庚申塔のようですが、馬頭観音像です。延享二年(1745)造立。地元では赤面(あかっつら)さんと呼ばれているそうです。

大山道道標・牧野大鐘
大山道道標と隣は供養塔。大山道標は彫りが深いですね。大山道の三文字の中に米一升入るそうです。道標の高さは88cm、造立は安永三年(1774)。

庚申塔と馬頭観音・牧野大鐘
奥牧野へ向かう途中、道端の庚申塔と馬頭観音。庚申塔は主尊がお地蔵様です。青面金剛が一般的ですが17世紀後半頃まではさまざまなものが主尊となっていたそうです。私が見たのは世田谷区野毛の善養寺以来二つ目です。お猿さんは正面と両側面に。貞享四年(1687)造立。

奥牧野の第六天須賀神社
奥牧野の第六天須賀神社
奥牧野の第六天須賀神社です。龍の彫刻の上にお猿さんのようなものが見えますね。参加者から力神と教えてもらいました。

水道記念碑・第六天須賀神社
第六天須賀神社境内の「水道記念碑 大正十五年十二月十三日竣工 神奈川県知事池田宏書」と刻んであります。場違いのところに水道記念碑とは・・・その頃にこの村に水道が引かれたということでしょうね。

神奈川県・山梨県県境
神奈川県・山梨県県境
目と鼻の先に県境の川が流れています。奥牧野の先、神奈川・山梨県境の様子です。上の写真は神奈川県側橋のたもとから見た山梨県上野原市。下の写真は橋を渡り上野原市側から見た神奈川県相模原市です。県境を流れる川は「境沢」、架かる橋は「境橋」です。

今回のスタート馬本生活改善センターの位置です。


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其の468 小田原城跡総構を歩いてきました・神奈川県小田原市 

 今回はいつもの水辺歩きからはずれた番外編です。
2月24日(土)に相模原市立博物館の民俗探訪会に参加し小田原城周辺を歩いてきました。その行程の中に以前から興味を持っていた小田原城跡総構(そうがまえ)見学があり空堀の中を実際に歩いてきました。

小田原城跡・小峰御鐘ノ台大堀切東堀
これが小田原城跡総構です。国指定史跡小田原城跡・小峰御鐘ノ台大堀切東堀(こみねおかねのだいおおほりきりひがしぼり)と言います。水が張ってない空堀です。
NHKのブラタモリ一行がここを歩いたそうです。

小田原城跡・小峰御鐘ノ台大堀切東堀
見学者と比較するとその威容が分かります。敵方兵士は土塁が急勾配なので登り降りが難しく突破することはまず無理だったでしょうね。
案内板から引用します。
戦国時代に構築された空堀で、幅が約25~30m、深さは堀底から土塁天端まで12~15m、堀の法面勾配は50~60度の急勾配で空堀としては全国的にも最大規模。
北條氏は、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めに対し、総構(そうがまえ)と言われる周囲約9kmの堀や土塁を構築し、その中に城のみならず城下町まで取り込んだ戦国期最大級の城郭を築きました。


小田原城跡・三の丸外郭新堀土塁
上記東堀の南側にある国指定史跡小田原城跡・三の丸外郭新堀土塁です。小田原城の西端に位置し西方の秀吉の陣城であった石垣山(一夜城)を眺望することができます。

三の丸外郭新堀土塁から石垣山(一夜城)を望む。
三の丸外郭新堀土塁から西方の石垣山(一夜城)を望む。

八幡山古郭東曲輪
これは八幡山古郭東曲輪です。小田原城址公園の西側にあります。

小田原城天守閣
次に訪れたのが小田原城址公園です。
天守閣は昭和35年に宝永年間再建時に作成された設計図や模型を参考に鉄筋コンクリート造りで復興。宝永年間に再建した天守閣は江戸時代を通じて存続したが明治3年、廃城により取り壊された。 (案内板より抜粋)
取り壊してしまったとはもったいない。惜しいことをしましたね。

小田原城銅門
小田原城銅門
この日は銅門(あかがねもん)特別公開の日でした。
宝永2年(1705)頃に造られたが明治維新の廃城により解体。平成9年(1997)復元。 (案内板より)

小田原城銅門
銅門内部の様子です。太くて頑丈そうな梁が目立ちます。吉野産の松材だそうです。

小田原城銅門石落
石を落して敵を撃退する「石落し」装置がありました。

大久保神社の奉納品砲弾
これは途中訪れた大久保神社境内の砲弾です。神社さんに砲弾とはなんでしょうかね。
台座に刻まれた「戦利兵器奉納ノ記」によると明治三十七、八年役戦利品ノ一ツニシテ・・・とあり日露戦争の戦利品でした。
奉納者は陸軍大臣寺内正毅 明治四十年三月奉納。
ロシア軍は弾薬を置いたまま逃げてしまったんですかね・・・。

小田原市板橋・内野邸
次に清閑邸を見学したあと最後に小田原板橋の内野邸を見学しました。
醤油醸造業の内野家が明治36年(1903)に建てた蔵造り風店舗兼住宅で裏には工場や穀蔵が現存。昭和55年(1980)醤油醸造事業から撤退。工場内には当時の巨大な醸造用木製桶や圧搾機械がそのまま遺されています。
写真は旧東海道沿いの内野邸ですが、昔この道に路面電車(ちんちん電車)が走っていたそうです。電車が写った当時の写真を見せてもらいました。また、敷地裏側沿いに小田原用水が流れています。4年ほど前に小田原用水を歩いた時に通ったのでとても懐かしかったですね・・・。

最初に訪れた小峰御鐘ノ台大堀切東堀の位置です。


其の463 お台場へ行ってきました・東京都港区台場

 世間ではよく知られた「お台場」。以前から興味があり一度は訪ねたいと思っていました。タイミングよく相模原市立博物館の民俗探訪会でお台場他を巡る企画があり参加しました。今回は水辺歩きの番外編です。

都立台場公園(第三台場)
2月14日(水)晴れ、最寄の東京テレポート駅からお台場海浜公園にやって来ました。対岸は高層ビル群。右側石垣が「お台場」です。目の前の砂浜は人工的な砂浜で伊豆諸島の神津島の砂を使用しているそうです。

都立台場公園(第三台場)
お台場海浜公園の砂浜はお台場につながっています。右手へ進みます。

お台場海浜公園の河津桜
途中見たお台場海浜公園の河津桜。1週間ほど前に姥川沿いで膨らみ出したつぼみを見たばかりです。

都立台場公園(第三台場)
お台場海浜公園から階段を上ってお台場に上陸しました。

都立台場公園(第三台場)
上陸地点から見たお台場の中の様子。お台場海浜公園からは全体がフラットな台地に見えたのですが中は平らな窪地になっています。お台場は正式名「都立台場公園(第三台場)」と言います。

都立台場公園(第三台場)平面図
都立台場公園案内板の「台場平面図」です。
案内板によると周りは海面から高さ5~7mの石垣積みの土手。土手には黒松が植えられ、平坦な窪地には陣屋、弾薬庫跡がある。
「お台場」の名で知られる品川台場は、江戸幕府が黒船来襲にそなえて、品川沖に築いた砲台跡。ペリーが浦賀に来航した翌月の嘉永6年(1853)8月着工、1年3か月で6基が完成。その内第三台場と第六台場が現存する。
 (案内板より抜粋)

第六台場
第三台場西の第六台場。第三台場も周りは海でした。昔のお台場を知るには今昔マップという重宝な資料があります。

今昔マップです。(今昔マップon the webより)

1896~1909年にセットした今昔マップです。中央が第三台場。年代を変えることにより周辺の埋め立てを含め変遷が解ります。大きな地図は右欄サイドバーからリンクできます。

以下は台場公園(第三台場)内の施設跡です。
都立台場公園(第三台場)砲台跡
土手上、南向きのコンクリート製砲台が2基。位置表示のための復元?と思われます。

都立台場公園(第三台場)かまど場跡
かまど場跡。江戸時代のものではないそうです。

都立台場公園(第三台場)陣屋跡
陣屋跡です。グループから離れ勝手に歩き回っています。

都立台場公園(第三台場)階段と弾薬庫跡
東側角地の階段とその右側は弾薬庫跡。土手の南面と西面に弾薬庫があります。敵艦は南、西方向から撃ってくると想定したのでしょう。

都立台場公園(第三台場)北側角の通路
北側角地の通路。石垣が途切れています。物資搬入用でしょうね。石垣左側に東京市の史蹟記念碑が立っていました。

都立台場公園(第三台場)北側角の船着き場
通路の先には船着き場があります。

ゆりかもめからの眺め
お台場見学後ゆりかもめで新橋に向いました。最後尾車両からの眺め。

旧新橋停車場プラットホーム
旧新橋停車場・鉄道歴史展示室を見学しました。
レストランライオンから見た旧新橋停車場のプラットホーム。

旧新橋停車場のゼロ哩標識
プラットホーム東側の「ゼロ哩(マイル)標識」と復元された双頭レールの線路。

愛宕神社の出世の石段
次に大神輿が有名な烏森神社を訪ねたあと愛宕神社へ。曲垣平九郎が馬で駆け上がった出世の石段です。

愛宕神社の出世の石段 愛宕神社の出世の石段
おしまいに石段真下からと参拝後に真上から見た出世の石段。帰りは女階段で下りました。

このあと増上寺、泉岳寺へ向かいましたが今回はこの辺で・・・。

其の445 中津川の廃橋/ほんとうの海底橋を訪ねる・神奈川県愛川町角田海底

 「其の443」で中津川の廃橋を取り上げました。現地の車両通行禁止看板に海底橋(おぞこばし)とあり、廃橋の名前は海底橋と思い込んだのですが記事を書きながらどうもおかしいと気付きました。あれこれ考え行動した結果ほんとうの海底橋が分かったので発表します。

中津川の廃橋・愛川町角田幣山
廃橋の写真を再掲します。(クリックで拡大します。)車両通行禁止看板の右肩に「海底橋」とあり青色ペンキで塗りつぶしてあります。左側に看板設置者の名前が「愛川町・角田区 厚木警察署」とかろうじて読み取れます。
この写真情報を元に「愛川町廃橋海底橋」でググると当然のようにこの廃橋の記事・画像共多数ヒットします。廃橋の名称が「海底橋」と定着してしまった感があります。嘘からでた誠と言うか誤解からでた誠になっていますね・・・。

私がおかしいなと感じた点は
(1) ここは愛川町角田幣山と言うところです。幣山に在る廃橋なのに海底橋とはこれ如何に?
(2) 海底地区はここより西方、角田大橋上流右岸にある集落です。
(3) 看板の青ペンキは誰が塗ったか?
世の中には公共施設にペンキで落書きをする不心得者がいます。初めは不心得者の仕業と思いました。しかし看板設置者が塗ったとすればどうでしょう? 私はほんとうの海底橋に掛かっていた注意看板をこの廃橋(当時は現役の橋)に流用したのではと推測しました。素直に読めばこの橋は海底橋ではありませんよと言っているわけです。

こんな時頼りになるのが今昔マップです。海底集落の橋の所在を確認しました。想像通り架橋されていましたよ。(^σ^)

今昔マップ(今昔マップon the webより)


(1)1965~1968年にセットした今昔マップです。
橋名表示はありませんが海底・戸倉間の橋が海底橋です。右側下流にある橋が幣山の廃橋(当時は現役の橋)です。
(2)次に年代を1983~1987年に切り替えると海底橋がなくなり下流に橋が出現します。現在の角田大橋です。幣山の橋はまだ健在です。この頃に海底橋の車両禁止看板を幣山の橋へ流用したものと思われます。
(3)1992~1995年に切り替えると幣山の橋も消えています。角田大橋の完成により二つの橋は役目を終えたことが分かります。
大きいサイズの今昔マップは右欄サイドバーからリンクできます。(検索窓に「愛川町海底」と入力)

海底・戸倉間に架橋されていた海底橋の写真は愛川町HP「写真で振り返る愛川町・60年の歩み」に角田・海底橋(昭和8年)として掲載されています。
車両通行禁止の看板は元々この橋のたもとに掛かっていました。写真にあるように吊橋でした。

中津川海底より対岸の戸倉を望む
これは中津川右岸の海底から対岸の戸倉を見たところです。大きな建物は介護老人保健施設せせらぎ。海底橋はここに架かっていました。海底橋の基礎部分の遺構があるそうですがこのように草が生い茂り確認できなかったですね。

中津川の廃橋・愛川町角田幣山
残る疑問です。この幣山の廃橋は現役の頃なんと呼ばれていたのでしょう? ちゃんとした名前があったはずです。
愛川町役場に照会して教えてもらいました。
地区の古老の話では特に正式名称はなかった。橋の鉄材が赤く塗装されていたことから「赤っぱし」と呼ぶ人もいた。「通行禁止」看板は、かつての「海底橋」の「通行禁止」看板を再利用した。

と言うことで特に正式名称はなかったそうです。看板再利用については私の推測通りでした。


今回は「海底橋は海底にあった」と言う話をしました。おしまいに海底集落の様子をちょっとだけご覧ください。

愛川町海底 日月神社
愛川町海底 日月神社の庚申塔
海底公民館の南、高台にある日月神社と庚申塔です。青面金剛は腕二本で合掌しています。六本腕(六臂)をよく見かけますがこの像は二本です。邪鬼や三猿も彫られています。造立年は不明。

愛川町海底・海底沢
海底沢橋・愛川町海底
海底沢と海底沢橋。相模湾から離れた内陸なのに「海底」とは面白い地名です。愛川町郷土資料館に地名の由来を書いた本があります。閲覧しましたが詳しすぎて(事細かく載っています)紹介しきれません。要点をいずれまた。

次回も中津川を取り上げる予定です。


其の443 中津川の廃橋を訪ねる・神奈川県愛川町角田幣山

 前回「其の442」の続きです。今回は丸山耕地水利組合の用水路終点、余水吐兼排水ゲートのすぐそばにある廃橋を取り上げます。少し詳しく記述するつもりでしたが調査に時間がかかりそうなので今回は見たまんまをお伝えします。
12月12日(火)、18日(月)に探訪しました。

中津川の廃橋・愛川町角田幣山
これが廃橋です。丸山耕地水利組合の余水吐兼排水ゲートは仮設トイレの右側にあります。

中津川の廃橋・愛川町角田幣山
柵があり車両通行禁止の看板が掛かっています。右肩に「海底橋」とあり青ペンキで塗りつぶしてあります。(クリック拡大)

中津川の廃橋・愛川町角田幣山
手前の方はコンクリート舗装がしてあり、橋脚もコンクリートです。

中津川の廃橋・愛川町角田幣山
石垣の橋台。正面奥に丸山耕地水利組合排水施設の黄色い注意看板が見えます。

中津川の廃橋・愛川町角田幣山
中津川の廃橋・愛川町角田幣山
その先でコンクリート舗装から鉄板敷き、橋脚は鉄骨に変わります。欄干も無くなっています。橋が中途で落ちています。
対岸(左岸)の堤防が途切れています。栗沢の河口です。横切る白いガードレールは横須賀水道みちです。

中津川の廃橋・愛川町角田幣山
橋から逆方向、右岸の集落を見ました。ここは愛川町角田幣山です。海底は愛川町角田の字名で「おぞこ」と読みますが角田大橋より上流の右岸沿いにその集落はあります。海底公民館とか海底沢橋にその名が見られます。

以下は河道内から見た廃橋です。
中津川の廃橋・愛川町角田幣山
中津川の廃橋・愛川町角田幣山
中津川の廃橋・愛川町角田幣山
中津川の廃橋・愛川町角田幣山
河道内を歩きました。今の季節だからこそ可能です。夏は葦や萱が繁りとてもじゃないがまず無理でしょう。

中津川の廃橋・愛川町角田幣山
中津川の廃橋・愛川町角田幣山
おしまいに対岸の栗沢河口付近から見た廃橋です。河口付近に廃橋の残骸らしきものは残っていなかったですね。

この廃橋については私なりに思うところあり。もう少し究明します。明らかになり次第もう一度取り上げる予定です。

廃橋の位置です。

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